「結果がすべて」は正しいか?

K君:よく大人たちが「結果がすべて」って言うんですけど、俺的にはすべてではないと思います。

結果がダメであっても、今まで頑張って努力してきたことは、ムダではないと思うんです。タカボーさんはどう考えますか?

 

僕:正直、今日のK君が真面目すぎて気持ちWaruiから考えたくない

 

 

K君:随分バカにしてません!?今日の宿題の小論文でタカボーさんの考えを丸写ししようと思ったのに…

 

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僕:あぁ、うん。そういうことか。ていうか、最初に僕に発言したK君の考えを小論文でまとめればいいのに…

 

K君:でも、小論文ってまとめるの難しいし…

 

 

僕:それは多分、小論文がデキる人の文章を読んで考えていない証拠だね。

まあ、小論文の書き方はここでは省略するよ。面倒だから…

…で話を戻して「結果がすべてである」という考え方。僕としては先程のK君の意見に賛同します。今までのブログでも書いてきたけど「〇〇はすべて」というのは、やっぱりやめたほうがいい思う。

 

K君:やっぱりそう思いますよね!!

 

 

僕:ただ、客観的に評価する上では、「結果がすべてである」で判断せざる終えない場合もあるということです。

何故かと言うと、人間は物事を情報に変換することを得意とし判断しているからです。

例えば、今はあまり見かけなくなりましたが、交番の掲示板に「今日は〇〇人死亡」「昨日は〇〇人死亡」と書いてある。

「あ、今日は昨日より死亡者は少ないんだ」と分かりますが、この人はじゃあどういった事故で死んだのかといったところまでは分からない。

 

ですが、他人からすれば、そんなこといちいち詳しく知ろうとする人は少ない。「今日〇〇で〇〇県の〇〇が〇〇で死亡した。原因は…」をじっくり新聞で見るより、死亡者を知りたいなら

「今日は〇〇人死亡でした」と情報変換するほうが頭のなかにスーッと入りやすい。

だから、「結果がすべて」という考えは現在の都市化社会とものすごく関係あるんじゃないかと思う。サラリーマンをみると分かります。メールや資料作成など、情報を処理することを毎日にようにしているでしょ。

 

K君:確かにずーっとパソコンと向き合ってますよね。

 

 

僕:極端な話、「結果=出力」であると思うんだ。結果を出す上で、最終的に形としてモノとして何かを残さなければならない。

それを良いか悪いかは世間が決めている。

では、その判断はどうやってしているかというと、出力したものを情報に変換して是非を論じているわけです。

志望校の合格ラインをテストの点数で決めるのもそうですね。

 

K君:う~ん。でも納得いかないな…

 

 

僕:うん。K君みたいに「結果がすべて」はおかしいと思う人も多くいる。でも、「これはおかしい」ということを世間(周り)に認めさせないといけない。

 

じゃあ認めさせるには、どうすればいいか。出力して形として残さなければならない。でもいまやっているそれは変な話(少なくとも)情報処理でしょう。

だから、「すべて」という考えは怪しいと思って、「結果」は(人生の中で)世間を認めさせるために残さなくてはならない。大切にすべし。というのが僕が今考えていることです。

 

K君:この内容で小論文書けるかなぁ…ww

 

 

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