「環境とは何か」
それについて、養老氏著者の『神は詳細に宿る』に以下のことが書かれていました。
「…環境という言葉自体がまず、わざわざ立てたものなんですね。自分というものを立て、それと周囲を切ったという意味で。
それがいけないと言っているわけではなく、それに対して自分が切ったんだという意識がなくてはいけない。
その意識がないと、「環境とはなんだ?」なんて議論を始めてもわけがわからなくなるだけです。」
…自分の頭の中で、「範囲」を意識していることで、初めて「環境」ができる。「境(さかい)」ですからね。切れ目があるんです。
この切れ目がないと、本書でも書かれている「自分が水になった」「自分と宇宙が一体となった」になる訳です。
例えですが、いやらしくイニシャルのアルファベッドで表すなら「H」です。あれも、自分と相手が一体になった感じになると言われます。自分が意識していた、切れ目がなくなるからです。
「環境問題」でよくいわれる、「環境」ってどこまでが範囲ですかって先生や専門家に質問すると、ちゃんと答えられないんじゃないかな。と思う。
それは何故かというと、人によって「環境」は違うからです。地球規模なのか世界規模なのか、自国もしくは自分の「環境」なのか。
その意識が互いに拮抗してしまう。だから議論するわけです。
二酸化炭素や窒素化合物を削減しよう、ではなく、根本はその「意識」している「環境」がメインです。それが各国(特に先進国)でまとまらないだけです。
今日の「新婚さんいらっしゃい」で、夫と妻とで育ってきた環境が違って生活面でケンカになったそうですが、あれも同じです。お互いに話し合って、どこかで折り合いをつけないといけない。そこで「掟」をつくるんです。
だから「環境」って難しんですね。本書にも書かれている通り訳が分からなくなって当然なんです。
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